共同体人間関係の再生 東京大学 神野名誉教授
・人間は誕生とともに、共同体的人間関係を形成し、それに抱かれえ「生」を営むことになる。共同体的人間関係が崩され、
人間の絆が断ち切られたいう不安感は、伝統的な共同体的人間関係への純粋な憧憬を呼び覚ます。
・伝統的共同体への強い憧憬が、暴力的な社会反動への熱狂に結びつくことになる。その結果、ISISなどの宗教的原理主義
とブレグジットやトランプ現象にみられる国家的原理主義が抬頭するようになる。格差社会から不安社会になっている。
・民主主義の基盤としては「親和的対立」と「親和的論争」があるが、民主主義への不信と幻滅が広がっている。それを示して
いるのが投票率の変化でみることができると言われている。OECD諸国の投票率の変化では、日本が最も大きく下がっている。
次が、イギリス、カナダ、フランス、アメリカ、ドイツとなっている。逆に、改善されているのは、スウェーデン、デンマークである。
・ローマ法王は 、「レールム・ノヴァルム」が出されて100年が経つので、 「新しいレールム・ノヴァルム」を出すことになり、東京
大学の宇沢名誉教授に協力を要請した。 「社会主義の弊害と資本主義の幻想」を提案した結果、ローマ法王ヨハネ・パウロ
二世から「新しいレールム・ノヴァルム」は「社会主義の弊害と資本主義の幻想」と捉えて、この二つの経済体制のわくぐみを
超えて、新しい世紀への展望を開こうとする感動的な回勅が出された。
・資本主義と社会主義を越えて人間の尊厳と魂の自立を可能とする経済体制はいかなる特質を持ち、いかなる方法で具現化
できるかを考えると、自然環境と人的環境の2つの環境破壊を克服する必要がある。
・民主主義と市場経済を両輪とする市場社会による新自由主義が出てきた。しかし、市場を大きくすると家族のコミュニティを崩す
ことになっている。福祉国家の所得再配分や社会保障が、家庭やコミュニテイという社会システムの機能を破壊している。
・工業化によって、所有欲求が満たされるようになり、豊かさを実感できるようになった。生活水準の上昇から生活様式の充実を
求めるようになり、「豊かさ」から「幸福」へと要望が変化している。「幸福」を実感するには、人と人、人と自然との関係で充足
される欲求である存在欲求を満たすことが必要になる。
・工業社会では存在欲求を犠牲にして、所有欲求を充足したのに対し、ポスト工業社会としての知識社会では人間的欲求の充足
を目指すことになる。所有欲求を充足する工業社会では「蓄える」ことが美徳であるが、知識を生産するポスト工業社会では
「惜しみなく与え合う」という共同体的人間関係を培養する精神的風土が美徳になると考えている。
・「量」を「質」に変換するのは、情報であり、知識であり、知恵である。それは、人間の人間的使用方法が再び評価させることだ
と言って良いと思う。人間は自然に働きかけて、人間に有用なものを創り出す時は、自然に存在する物質量に情報を加える。
情報とは「形を与える」という意味である。人間は鉱石から矢尻を作る時にも、自然に存在する物に情報を加えて製作する。
しかし、心臓のペースメーカを作る時の方が、自然の物質量に加える情報は飛躍的に増加する。
・自然に存在する物質量に対して、追加する情報量を飛躍的に増加させれば、当然のことながら、自然に存在する物質量の
使用は飛躍的に節約される。「量」が「質」に置き換えられれば、耐久性は向上し、使い易くなり、使用する期間も長期化する。
大量生産・大量消費の下では、生産の「場」と消費の「場」が離れているため、膨大な無駄が生じる。生産の「場」と消費の「場」
を急激に近づけ、あたかも注文方式のようにすると、多様な需要に対応して、無駄のない多様な生産が可能になっている。
・知識社会が要求する「量」を「質」に置き換える人間的能力は多様である。どのような能力が必要になるかは未知なので、それ
ぞれの人間が掛け替えのない能力を開花させていくしかない。そのため、工業社会のように、標準化された反復訓練による
能力や標準化された知識を強制的に詰め込まれた能力は必要されなくなる。知識社会では、問題の所在を認知するとともに、
認知した問題を創造的に解決していく能力や学び続けることを動機づける能力が必要となる。
・家族意識とは構成員の誰もに対して、不幸にならないことを願い合い、幸福になることを願い合っているという確信である。
私たちは学校、職場、余暇活動などで様々なグループに属しているが、最も大事なグループは家族である。スウェーデンの
教科書では、家族は社会全体がその上に成り立っている基盤である。家族の中では、親近感、思いやり、連帯感、相互理解
を感じる。一方、お互いへの配慮や敬意、家族の一員としての家庭内の仕事の分担が要求される。家族内では、私たちはあり
のままでいながら、受け入れられ好かれていると感じことが出来る。例え、馬鹿なことを言ったりしてもそう感じることができる。
・共同体的人間関係は他者を目的とする人間関係があり、動機づけは愛であり、市場的人間関係で他者を手段とする人間関係
の動機づけは利害である。共同体的人間関係が存在しなければ、人間は生存しえないのに、日本では市場的人間関係の
急速な拡大によって、共同体的人間関係が著しく希薄化してしまっている。共同体的人間関係が家族主義であった日本では、
家族以外の共同体的人間関係が希薄だったために、「ファミレス社会」になると「無縁社会」となってしまう。日本では、社会的
孤立が、孤独死やゴミ屋敷などに象徴される社会的逸脱行動という社会的病理現象として表出している。生産の場と生活の
場が分離している都市では、共同体的人間関係の再生が政策的支援や意識的運動として繰り広げられる必要性が高い。
・市場社会での人間の生活は、貨幣所得と共同体的人間関係の貴族所得で支えられているが、生活困窮は単に所得が低い
ということだけでなく、共同体的人間関係も消失することが起こっている。類的本質を取り戻すことで、功利主義を乗り越える
必要があると考えている。 クラーク博士は、「金のためではなく、利己的な功績のためではなく、人と名声と呼ぶあのはかない
もののためでもなく、少年よ大志を抱け」 と言っているように、人間の本分をなすべく大志を抱けと言っている。
・類的本質を取り戻す「懐かしい未来」であり、日本人のやさしさ、謙虚さ、心のゆとりである。海外から来た人が日本に来て強く
印象をうけたことは、何で日本の子供達は笑っているのかということや日本人は何故笑顔でいられるのか、ということであった。
人間の本質を取り戻し、やさしさ、謙虚さ、心のゆとりを持つようにすることが必要である。日本では、人間の家庭愛が復活し、
家庭のコミュニティーを回復することが大事であると思う。
「一言」 お話を聞いていると、日本の家庭が崩れているので、ポスト工業社会では、家庭の回復が大事であると説明されて
いた。これまで私も、日本の家庭の崩壊が気になっていたので、非常に共感した。聞きながらメモを取っていなかった
ので、配布された資料を読みながらまとめてみましたが、何となく聞いた印象と違ってきた感じがします。