日本型マーケティングの新展開           経済学部  池尾教授

  ・マーケティングは如何に売るかという企業側の話である。ドラッガーは経済学者であるが、アメリカの一部ではまったく評価

   されていない。原因は緻密でないことであり、学者は緻密でないと認めないのである。ドラッガーはお客様が欲しいという状況

   を作り出すことで、自然に売れるようにして、セリングを不要にするという意見である。ドラッカーの意見は実効が上がっている

   ので、産業界では無視できない状況になっている。

  ・マーケティグが必要になったのは、第2次産業革命により大量生産が行われるようになったために出てきた。P&Bの本社は

   米国のシンシナティである。シンシナティは豚の集落地であり、屠殺した豚の脂が大量にでてきた。その脂で石鹸を作り、大量

   生産に成功した。経営者の子ども達はこの石鹸を一個づつ箱に入れ、アイボリーの表紙を付けて売った。新聞に公告を出して

   雑貨屋で売った。これが石鹸のマーケティングの始まりであると言われている。

  ・日本でのマーケティングは1956年に始まった。日本では1955年に大量生産が始まった。1970年、1990年、2010年の3回の不況

   で日本のマーケティングが大きく変わった。日本は1955年から1973年のオイルショックまで、毎年10%以上の成長率を達成した。

   1973年の不況は1年で1974年から1990は毎年4%の安定成長した。1990年にバブルが起こった。その後、10年間は1%

   以下の成長率になった。2004年が底で、その後、だらだらと回復したが、2012年にリーマンショックが起こった。不況になると、

   ものが売れなくなる。景気が悪くなるとマーケティングによる影響が大きくなる。アサヒビールがキリンビールを抜くのに10年位

   かかった。夏、暑いとキリンビールが売れる。夏、暑くないとアサヒビールが売れるという現象が出てきた。夏、暑いとビールは

   どれでも良いので、生産能力大きいキリンビールが勝つ。マーケティングは売れない時期に大きな差を生むのである。

  ・正しいマーケティングは環境に合っていることであり、特に、市場環境に合致していることである。戦後の日本は未熟なユーザ

   が出てきたが、ユーザは日々学習してきた。学習しているユーザに合わせて、マーケティングを改良してくことが大事になる。

   戦後、大きく変わったのは家庭用電化製品と自動車である。アメリカ型のライフスタイルは戦後の豊かさの象徴であった。日本

   人がアメリカ型の生活を求めたため、家庭用電化製品が普及した。19世紀のヨーロッパの自動車と今の日本の自動車は目的

   が全く違っている。今の日本の自動車は大衆の足であるが、19世紀のヨーロッパの自動車は貴族の遊びであった。自動車を

   走らすために、色々なものが必要で、走らすにも、管理するにも非常にお金をかけていた。自動車を一般大衆の足にしたのは

   フォードである。アメリカ型のライフスタイルは世の中の夢だった。日本の特長は非常に短期間でそれを達成したことである。

  ・戦争は経済を復興させることが多い。第2戦後のドイツの生産能力は戦争前に比べて94%であり、それ程、大きく下がって

   いなかった。日本の生産能力は戦前に比べて40%程度になっていた。駐留軍が来て、更に日本の生産能力を下げていった。

   日本の成長が許されたのは1950年である。そこで、1955年に成長が始まり、1969年には日本の生産の能力は世界第2位に

   なった。短期間で成長したため、日本の買い手は未熟性があり、騙されたくないと言うリスク回避志向になった。想起集合に

   執着するようになり、日本のブランドの考え方が変わった。1980年代中頃までは個別ブランドはなく、企業名ブランドを志向

   した。例外は、マヨネーズのキューピと缶詰のアオハタである。外国企業ではコカ・コーラである。

  ・1980年代中頃に資生堂がアウトオブブランドと言い出した。最近では、ウイスキーのサントリーが薬を売り出し、写真フィルム

   の富士フィルムが化粧品を売り出している。人がものを買う時に情報を集める。レベルの高いは印刷物や現物から情報を

   集めるが、一般の人は他人から聞く。それに合わせたブランド戦略が出てきた。画期的商品による差別化は日本では上手く

   いかないが、商品の改革は上手い。そのため、技術の進歩は速いが、革新は難しいのが特徴である。そのため、新製品の

   改革スピードを速めた。日本では小売店員やセールスマンが情報源となった。それらによる囲い込みである。松下は小売店

   による販売力を持っており強みにしていた。1980年代までのマーケティングの強さは販売チェーンであり、トヨタや日立、東芝、

   味の素などである。企業という組織と人間の信頼関係が築かれていた。それにより競争が排除された。メーカがディーラを

   囲い込み、ディーラがユーザを囲い込む形を取っている。その結果、メーカが製品を取りあえず出すことになる。新製品を出

   さないとユーザが迷うことになる。メーカには縦、横のフルライン戦略が求められた。

  ・ブランドの役割は信頼の印と識別手段であり、未熟な人は信頼の印を重視し、レベルの高い人は識別手段を重視する。信頼

   は守備範囲が広く、識別手段は守備範囲が狭い。その次が、意味であり、ブランドを持つ人になったというようなことである。

   日本は性能と品質でブランド力を上げているが、その他のものでブランド力を上げるのは苦手である。最近、世界では意味を

   持つ高級ブランドを買い集めることが多くなっているが、日本は買うのが下手で上手くいった例がない。同質的マーケティング

   で競争すると価格競争になる。そのため、大胆な差別化が必要になってくる。差別化を行うには、フルラインでは上手くいかない

   ので、選択と集中が必要になる。しかし、流通営業担当が強く抵抗する。営業は顧客を持っているので、無理強い出来ない。

   サムソンも少し前は経営が厳しかったが、それが数年という短期間で成長したのは選択と集中で、会長のワンマンで実現した。

  ・もう一つがワンストップショッピングである。営業担当者にとっては都合が良い。製造部門としては都合が悪いので、折り合いを

   つけたのがオープン型マーケティングである。製造部門もOEMで他社に製造をまかせることが進んだ。その結果、選択と集中

   が進むようになってきた。それと共に、販売代理業から購買代理業に変わっていった。お客様のニーズに合った最も良い製品

   を持ってくることになる。パソコンでもWindows95の頃はどの企業もほぼ同じだったが、Windows8メーカ毎に違っている。

  ・マッチングビジネスのマーケティングが出てきた。お客様のニーズを中心にメーカを差別しない社会性強調型マッチングがある。

   流通業者として活動するのならば、メーカとのがり大切にしては上手くいかない。これを顧客シェアと言い、みんなが幸せ

   になる。無理をしたセリングをするより、メーカも楽になる。無理な販売をすると、価格を下げることになるが、それで得をする

   のは浮気者のユーザであり、固定客は傍観するだけである。顧客シェアの上げ方には、①他社の製品を扱う方法がある。

   次に、②自分で作ることである。その次は、③アップルのように、会社の形を変えてしまうことである。アマゾンプライム会員は

   何千曲もの音楽が聴き放題になる。アップルも3000万曲が聴き放題になる。音楽業界はどのようにビジネスを変えていくのか

   ということになる。エーベックスでは、音楽では儲からないので、コンサートや著作権、握手などに取り組むことを考えている。

  ・メーカはどうやって行くことになるのかというと、独自性である。良品計画のように自社でものを企画し作っている。わが社しか

   ない技術を最も高く買ってくれるお客様を見つける必要がある。燕三条の食器も普通に食事をする時に使うのなら、安い食器

   と変わるところがない。昨年のノーベル賞の祝賀食事会では燕三条の食器を使っていた。非常に細工が綺麗で高価な感じが

   した。ケン奥山さんと手を組んでダブルステンレスのワイングラスを作り、洒落たレストランなどに2万円で売った。独自の技術

   で、2重構造にして、中を真空にして断熱性を持たせた他では作れないワイングラスを作っている。独自性協調型の例である。

 「感想」非常に興味のあるお話であった。戦後から経済を見て、ものの販売がどのように変わっていったのか良くまとまっていたと思う。