ボランティア
NPO活動論U        小諸市      依田先生 


   ・今日は小諸から来られた依田さんに地域に向かっての活動に話して貰うことにする。依田さんは83歳で、奥様は80歳で、100坪の

    菜園で十数種類の野菜を作っている。二人で食べ切れないので、近所に配っている。家の正面は浅間山があり、昨日は真っ赤な

    山が見られた。依田さんは若月さんに育てられて、今も地域で農村医療等で活躍しており、今日はボランティアについて話をする。

   ・昨年6月に地域医療活動法が出来た。この法案の内容は、医療から介護へ、病院から自宅への動きであり、ボランティアの活動に

    期待している状況である。東京と地方で状況も人も大きく違う。東京の大学を出て、新聞社で働いていたが、嫌になって、小諸に

    帰り酪農を始めた。開拓をする場所はカラマツ林の跡地で、戦時中は供木していたところで、31年に引揚者と一緒に入った。開拓

    は食糧難を解決していくもので、開拓地には食べ物もなく、家もなかった。水を引き、道路を作った。開拓地に入っている人の結婚

    問題があった。開拓地ではくたびれて、4050歳で疲れて亡くなっていく。若月先生にお願いに行ったが、手が回らないと断れた。

    酪農の牛は365日働いてくれるので、毎日対応しないといけない。牛の乳は毎日絞ってやらないと炎症を起し使えなくなるのである。

   ・重労働で身体を壊した。回復後、小諸病院に何でもするからと言って採用して貰い、働いていると、健康管理部に入れた。地域の

    保健等の活動をした。演劇活動もした。佐久総合病院はJA厚生連の活動である。農民も病院に行けるようにしたのが厚生連である。

    共同組合はみんながお金を出し合って、診て貰えるようにした組織である。健康も大事という意識改革が必要であった。農民は普段

    は農業を行い、戦争の時は狩り出すために、徳川家康が「農民は生かさず、殺さず」と言った考えが、農民に浸透しており、農民は

    身体を犠牲するのが当然と考え、病院に行く考えなかった。健康犠牲の考えを取り除くために努力した。健診も1年に1回くらいは

    受けようという考えに変えていった。若月先生は各地を回っていつも同じことを言っていた。これを愚痴った時、若月先生に言われた

    のは繰り返さないといけないと思い込んで話をすることであった。昭和50年に患者や住民にアンケートを行った。80人の職員が一軒

    一軒回って意見や苦情を聞いた。個人的な苦情も入っていたが、本にしてすべての職員に配った。若月先生は演劇の中で言いたい

    ことを役者に言わした。病院では医師は威張っていたので、演劇では一人欠けても成り立たないことから、医師も看護師も事務方も

    参加して演劇の練習をする中で若い医師を教育してきた。

   ・地域医療懇談会を立ち上げた。医者と患者が信頼関係を作るために懇談会を作った。その中で老人介護施設づくりの住民運動が

    起こった。老人保健法は70歳以上の医療費を減らすことであった。身体が不自由になっても、一時的に預かって貰える施設を作った。

    これが今のディサービスにつながった。世間体のため、老人を預けることが出来なかいというので、昼だけ預けるところを作った。

    設備は行政に作って貰うことにした。行政に金がないというので、養蚕飼育所を使った。自分達の老後を考えていく懇親会を作った。

    気がついたことをどんどん進めていくことになった。

「感想」若月先生に協力して、地域の活動をしており、成果を上げたので、自信を持っていた。83歳とは思えない程、
     元気そうで驚いたが、このままでは、生涯現役ということになりそうなので、羨ましく思いました。