明治学院校歌と島崎藤村   −1906年の緑葉

1.島崎藤村とは

  ・先生が早稲田大学の大学院の時に、明治学院に行くように言われたが、人と話をするのが苦手なので断りたかったが、明治学院に来た。

   島崎藤村は基本的には長編小説だったので、学生に教えるのが難しいので、これまで教えたことはない。もう一つの理由は、島崎藤村は長生き

   したい人なので、若い人には理解し難いと思った。更に、自分は藤村が好きになれないので、好きでない人の授業をすることが難しいことである。

   チャレンジコミュニケーション大学で一度講義をした。年齢が高い人が多いので、ある程度、理解してくれるのではないかと考えた。

  ・島崎藤村が嫌いだということが私にとっての意味を話しする。1906年というポイントに絞って説明したいと思う。

   島崎藤村は近代の作家の中では珍しく、好きとか嫌いだとかということが話題になる作家である。芥川龍之介は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者

   に出会ったことはないと言っている。「新生」の島崎藤村自身のことである。正宗は「新生」の背後にいる島崎藤村を称賛している。伊藤整は藤村の

   文体について「物事を明確に言わず、暗示的に言い、圧力が強く強引である」と言っている。これに対して、剣持武彦は「口ごもる言いきらない表現

   に独特の風韻を感じる人は藤村の文学の好きな人であり、文体にもったいぶった感情の誇張を読む人は藤村文学がl嫌いな人である」と解説した。


2.
1906年に書いた校歌

  ・島崎藤村は1906年に明治学院の校歌を作詞した。1905年に小諸義塾を辞めて上京するが、前年5月に三女を亡くしている。10月に長男が誕生して

   いるが、1906年には長女と次女を亡くし、妻の体調も思わしくなく、夫婦関係も円満とは言えなかった。また、妻の実家などから借金をしていた。

  ・1906年には「破壊」を自費出版して、詩人から一流作家としての地位を確立した。島崎藤村は自然主義作家として、客観的に自分が何をしたか

   書いた。自然主義作家の代表であり、成功を収めた人物である。長女を緑と名付けたが、1906年に6歳で亡くなった。その後、緑葉集を出した。

   1906は藤村にとっても、緑葉が季語として使われる夏になったと思う。それに伴い、浪漫主義から自然主義になったのだと思う。表現も詩から

   小説になった。 1906は島崎藤村が、浪漫主義から自然主義へ、詩人から小説家に、若菜集から緑葉集に変わった時期である。緑葉集では夢

   破れた嘆きばかりが出てくる。若い時代を通り過ぎた時期である。夢の時代を生きられなくなった時期に島崎藤村は校歌を作っているので、他の

   学校の校歌のように元気ではつらつとするだけない校歌である。明治学院の校歌にはこれから厳しい社会出ていくことを暗示する表現がある。

  ・妻が亡くなった後、手伝いにきた姪のこま子に子供が出来た。こま子との関係を清算するため、パリへ渡航して4年滞在して帰国した。

   1918年に「新生」を発表し、こま子とのことを連載した。こま子は日本におれなくなり、台湾に逃げた。「新生」を読むと、藤村は卑怯だと思ってしまう。

   藤村は何かあると逃げ出してしまう。先生ならどうするかと考えると、きっと逃げると思う。先生の中に藤村のようなものを持っていると思ってしまう。

   だから嫌だけど、文学者としては藤村の小説を読まないといけないと思う。小説は文学を書いた人と一対一で向き合う時間だと思う。

「一言」文学の授業を聞いたが、面白かった。自然主義小説のように、島崎藤村という作者と小説の人物が同じなら、問題が多く、

     不幸になる人が出てくると思った。また、明治学院の校歌については、面白い解釈だと感じた。